こんにちは編集スタッフのQです。今回から音楽にまつわる書籍をこちらでご紹介して行きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
今回ご紹介するのは『パリ左岸のピアノ工房』(T.Eカーハート 著/村松潔 訳 新潮クレスト・ブックス)です。この本の発行は2001年ですから、もう20年以上前。ただ不覚にも私はその存在を最近まで知りませんでした。出会ったのは、先日、近所のショッピングモール内の書店に、ある本を探しに行った時のこと。入り口付近の棚に小さな手書きのPOPが掲示されてあって、そこに「外国文学のない生活なんて」と記されており、なんとなく気になって足を止めました。そこでお薦めされ平積みになっていた何冊かの中に、アイボリーに小さな黒のイラストが描かれたこの本があったんです。
普段、あまり翻訳物を読まない自分ですから、いつもだったら一瞥して通り過ぎてしまうのですが、装丁を含めて本全体から漂ってくるおしゃれな雰囲気に惹かれたのと、ここ数年、仕事の関係で定期的に中古ピアノの修理・再生工房を訪ねていて、ピアノ職人の方々を身近に感じていたこともあったからでしょうか、どうにも気になって思わず手に取ってしまいました。そんな偶然から出会った一冊ですが、これが“あたり“。最近ではオンラインで本を買うことが多いんですが、思いがけない一冊に出会うという意味で、やはり書店に足を運ばなくちゃダメですね。
さて、この『パリ左岸のピアノ工房』はパリ在住のアメリカ人である「わたし」(著者)が、娘の幼稚園の送り迎えの際、小さなピアノ工房を見つけるところから始まります。幼い頃からピアノを習っていましたが、パリではピアノのない生活を送っていたわたしは「手頃な中古のアップライトでもないか」と工房を訪ね、そこでリュックというピアノ職人と出会います。何度かの訪問の後、リュックは「あなたにぴったりのピアノがちょうど来た」と言い、「わたし」をアトリエに招き入れると、そこにあったのは1930年代半ばに製造されたシュティングル社(オーストリア)製のベビー・グランドピアノ。「わたし」はリュックに「これはわたしには手が出ない」と言いますが、リュックはこのピアノがいかに「わたし」にあっているか、素晴らしい楽器であるかを力説。実際に試弾を勧められた「わたし」は、ピアノの前に座ると瞬時に「自分でもこのピアノを愛して、生活のなかに音楽を取り戻したいと願っている」のを悟ります
物語は「わたし」がこのピアノを手にすることで始まるパリでの「ピアノのある暮らし」と、リュックが作業する工房に集まってくる数々のピアノ(その中には歴史的な名機も)の話が、複層的に絡み合いながら進んでいきます。
リュックはピアノなどの優れた楽器を、自分の富や音楽的な虚栄心を誇示する手段として使う人を軽蔑していて、「眺めるだけならスイス銀行の小切手帳か株券でも眺めてれば良い」と言い放ち、そんなピアノが縁あって彼の工房に来ると「さあ、これからはこれは置物であるのをやめて、生き始められるんだ」と嬉々としてその再生を行います。一方「いまさらプロになろうとかリサイタルをひらこうという野心がない」「わたし」は、幼い頃に発表会など人前で演奏することを強要されたピアノレッスンから解き放たれ、より純粋にピアノとの対話に向き合っていきます。
おそらくふたりに共通する価値観の物差しはピアノなのでしょう。ピアノを前にどう振る舞い、どのように接しているかでその人間性がわかる、とでもいうような。
街角ですれ違うと、ふたりはこんな言葉を交わします。
「ピアノは相変わらず歌ってるかい?」
「もちろん、彼はちゃんと歌っているよ」
著者である「わたし」の経験をベースに書かれた本書は、いわゆるノンフィクションに分類されますが、けっして堅苦しくなく、エッセイのような雰囲気もまとっていて、とても読みやすい作品です(そこには翻訳家の村松氏の力も大きいのでしょう)。パリのカルチェ(地区)の雰囲気、フランス人ならではの(それは時に僕らからすると、鼻につく)小粋な会話、何よりピアノへの愛に満ちあふれた一冊です。








